北風に千鳥格子

なりゆきで始まった超私的ブログ。更新凍結。近日ネットの藻屑と消えます

Thursday, February 24, 2005

「働く意味」ってなにさ?

 まあ今僕は世に言う「就職活動」というものをしているわけだけど、「企業研究」や「自己分析」に次いで良くいわれることが「自分にとって働くことの意味を考えろ」というようなことだ。
 けど僕のような世間知らずにはこれが良くわからない。働くことの意味なんていちいち考えるようなことか?
 「仕事」とか「働く」とは結局誰かがしてほしいこと、手に入れたいものをその人の代わりに準備して、その見返りにお金、もしくは自分が生きるために必要なものをもらうことだ。それ以上でもそれ以下でもないはずではないか? 
 いや、もちろんその「職業」の意味は当然考えるべきだ。なぜその職業があるのか、どんなことが求められているのか、把握していなければ話にならない。そうしないとなかなかお客は満足しない、つまり見返りも手に入らない。そう、仕事に一番重要なものは客の要求を満たすことである。自分の満足だけでは仕事にはならない。「好きなことを仕事にしたい」というキャッチコピーのジレンマである。書いてて思うけどなんかレベルの低い話だなあ。飽きてきた。

 では、なぜこんなことが問題になるのか?
 日本のようなモノの豊かな国に住む人は、なんだかんだいって生きることそれ自体に余裕があるからではなかろうか。
生きるためにそんなに必死にならなくても良い。一日のほとんどを狩りや農耕に使う必要はない。生命を維持する目的でその生きる時間の大部分を使わなくても良いのである。生きていくだけのお金がもらえる仕事なんてのはたくさんあって、何をやったって生きていける。だからこそ、退屈な仕事はしたくないと思う。こんなこと意味があるのか?と疑問に思う仕事はしたくない。やってて面白い仕事がよい。生きがいを感じれる仕事がいい。と、だんだん個人の人生の目標が仕事によって決まるような方向にずれていってしまう。人生は結局目的がなければやってらんないほどに退屈なものなのだ。

 勘違いしてはいけない。仕事は生きていくための手段であり、人生の目標なんてのは生きていけたその次に考えるべき問題だ。人生の目的なんてのは個人的なものであり、それが自分以外に認められるとは限らない。仕事は認められなくてはお金がもらえないのだ。でも、そういっちゃうと夢がないとか思われちゃうんだろうな。別に夢がないことを言ってるつもりはないんだけど。

 まあ当然このギャップがはげしくみられるのは学術、芸術部門だろう。この二つはどっちも自分の見る世界が美しければそれで価値がある、という世界だ(と思う)。学術の場合は金がかかるわりにそれが果たしてなんの役に立つかわからないことが多い。研究費を得るために研究者は頭をひねっていかにこの研究が人間社会に利益をもたらすかをプレゼンしなければならない。認められなければならない。もっと頭を使いたいのは別のことなのにもかかわらず、である。芸術もこれ、認められなければまったくお金にならない。お金にならないまま自分の美学の中に真理を見出して死んでいくのも勝手(死後に評価される芸術家とか理論とか)。それもまたいい人生じゃないか?

 「面白い仕事がしたい」「人のためになる仕事がしたい」とか、全然間違ってないと思う。ただ、自分がどう生きていきたいか、という抽象的な想いと、それが仕事を通して現実のものになるかというのは微妙に絶妙な問題だよなあ、とも思うのだ。うまくこう、需要と供給がぴたっと合えばうまくいくし、ダメなときは全然ダメだろう。人生の意味、っつっても僕には暇つぶし程度の意味しかない。仕事がちょっとでも面白さを感じられたらそれでいい。少しくらいお金のない生活でも仕事が面白くなくても、世界に他に面白いことはたくさんある。仕事だろーと何だろーと、死ぬまでヒマつぶせればそれで幸せで、ヒマつぶせなくなったら死ぬだけだ。

 あ、この間行った説明会で重役の方が、「うちはたしかに○○(某大企業)の関連会社ですが、下請けだと思ってもらっては困ります。わが社の社員の技術力は平均的に見ても本社の社員より勝っていると考えておりますし、わが社なくして○○の経営は成り立ちません」とか言い切っていた。本当かどうかはともかく、こうして仕事に誇りを持っているってカッコいいよなあ。「自分らこそが世界が認める質を作り出せる」みたいな。どうせ仕事するんならそういう人になりたい。誇りを持って金がもらえるなんて最高だ。

2 Comments:

  • At February 25, 2005 1:12 pm, Anonymous afu said…

    たしかに仕事っていざ始めてみるまで自分にあっているかとか、楽しいかとか良く分からないと思う。そのギャップで五月病になって仕事をやめる人は沢山いるはずだ。世の中の大概の人たちにとって、仕事は生きるためにつまらなくてもしなきゃいけない"暇つぶし"のようなものだろう。

    しかし、はじめは良く分からない仕事でも、やっていくうちに特有の奥の深さがあることに気付くだろう(ある一定の閾値を超えるやる気があれば)。そのとき、物事を"極める"という考え方が重要になってくると私は思う。いわゆる"道"に入るということか。同じ仕事をやるにしても、こうやった方がうまくいくのでは?とか、常識的に考えればこうだが、実はこの根拠は何もない。よって、ああ考えると面白いのでは?などなどのようになるまで仕事を把握できるようになると、これまでに誰も考えもしなかったような、"自分にしかたどりついていない境地"に着けるかもしれない。

    私はこの境地にとてもあこがれている。自分でその境地を見てみたい!そして、将来、これは自分がやったんだ!と自信を持って言える仕事をしたい。そう思う。それが人生の目的にもなっている。

    そのためにはある程度の"粘り強さ"が必要のように思う。最近は粘り強い人があまりいないような気がするのは気のせいか?話は飛ぶが、理科離れ、特に物理をやらない人が増えたのは粘り強さとある程度関係しているように思うのは私だけか?やっぱり教育が悪いのか?

    仕事のことも教育の一環として小さいころからずっと考えるようにしていれば今になっていきなり悩み出すこともないはずなのだが。社会を意識した教育がなされていないにもかかわらず、いきなり社会に適応しろと言っている今の日本の教育方針に問題があるのでは、と私は常々思って言う。

    徒然なるままに、マジメな文に対して少しマジメなレスをつけてみました。

     
  • At February 27, 2005 1:40 pm, Blogger oji said…

    わい、こんなkuso文にレスありがとうございます。

    そーですねー、僕は小さいころから周囲の「人は夢を持って生きなければならない」みたいな風潮にどーもなじめなかったんですよ。夢なんてどんな生活にも、どんな仕事にも見出せるはずであって、だったら最初から夢を決めてしまうことにどれほどの価値があるのかと。まだ世界を良く知らないうちに決めてしまった夢なんて安易なものではないんかと。
    まあ人間結局世界のすべてを知ることなんてできないんですけど。

    だからか、就職活動ってけっこう微妙だなあと思いながらやってます。まあ内定もらっても微妙と思いつづけそうですけど。

     

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